咲いたか、まだか

春が深まる4月になると、韓国人は妙な分裂の中に置かれる。 桜の花祭りの人波はどの年よりも多くなり、汝矣島や鎮海、慶州の桜の花の下で人々は食べ、飲み、めいめい同じ風景を違う角度から撮ってアップする。美しいということを知らない者はいない。しかし、その美しさを十分に楽しむためには、何かをしばらく忘れなければならないという感覚も消えない。桜の花は、韓国人の記憶の中で一度も日本から完全に自由であったことがない。植民地期、総督府の手によって朝鮮各地に植えられた木々、朝鮮人の春の文化とは別個の論理で移植された花見文化の残像が、4月のときめく雰囲気のどこかに依然として染み込んでいる。 かつてこの不都合さを解消してくれる物語があった。日本を代表する桜の花、ソメイヨシノ(Prunus × yedoensis)の原産地が実は済州島であるという主張だった。日本が自国のアイデンティティの核心的な象徴とした花が、実は他所から渡ってきたものだという叙事は、どこか痛快な対称を持っていた。奪った者が、奪われた者のものを自分のもののように掲げたという物語。 しかし、この叙事は遺伝子分析の前で持ちこたえられなかった。2010年代後半、分子生物学の研究は済州の王桜とソメイヨシノが別個の種であることを確認した。起源の物語は、慰めになった分だけ正確ではなかった。 ところがその物語が崩れる瞬間、より興味深い問いが残る。起源論争が静かに覆い隠していた問い。ソメイヨシノが日本のものであるならば、それはどれほど古い日本のものであるのか。桜の花が今日のような方式で日本文明の顔となったのはいつからであり、どのような過程を経たのか。 その答えは、起源論争のどちら側も予想できなかった方向にある。 伝統は実在した 平安時代の貴族文化の中で、桜の花はすでに春の中心にあった。同時代の詩歌は桜の花を、美しさと無常が重なる瞬間の言語として繰り返し呼び使う。『源氏物語』や『伊勢物語』がそうであり、それより数世紀後、京都の春の名所をまとめた記録がそうだ。それらの記録において、桜の花の名所の数は他のどんな花とも比較にならない。桜の花は単に多く植えられた花ではなかった。春の経験そのものを組織する花であった。 しかし、この長い歴史にはよく見えない転換が一つある。 平安以前まで、日本の貴族が春の花として最も愛したのは桜の花ではなく梅であった。中国文化の影響の中で、梅は学識と品格の象徴であり、詩と絵の主人公であった。桜の花が梅を押し出して前面に登場するのは平安中期以降のことである。この転換は単に好みが変わったのではなかった。中国的なものを模範とした文化から、日本固有の感受性を意識的に育もうとする動き。その流れの中で、桜の花は日本自らの言語を探す過程において選択された花であった。梅から桜の花への移行は、それ自体ですでに一つの文化的な構成であった。 そうして中心に上った桜の花を、平安の貴族たちはどのように見つめたのか。 それは今日、私たちが思い浮かべる風景とは随分異なっていた。杉やブナや楢が混ざって育つ森の中に、まばらに咲き上がる花。花と赤い葉が一緒に芽生え、白さが緑と赤の間から初めて姿を現す花。霧の中で幽かに浮かび上がる花。平安の詩歌において、桜の花がそれほど頻繁に、待ち望む言語と共に登場するのは偶然ではない。その花は、探してこそ見える花であった。目立つのではなく、視線が能動的に向かってこそ初めて発見される花。「咲いたか、まだか」という緊張が可能であったのは、花が最初から明白ではなかったからである。 その緊張が、待ち望むその心が、平安の美学が桜の花から汲み上げた情緒の核心であった。 江戸時代後期の記録を見ると、当時の人々が春に楽しんだ花は桜の花だけではなかった。梅、椿、桃、藤、躑躅、牡丹。江戸の人々の春の名所案内書には、数十種の花と木が共に載っていた。桜の花が特別な位置を占めていたのは事実であるが、春の風景の中には依然として複数の声が混ざっていた。桜の花が他のすべてを消し去り、日本の春の唯一の顔となったのは、まだこの時期の物語ではない。 伝統は実在した。しかし、その伝統が今日の形態へと、ただ一つの品種が列島全体を覆う方式へと収斂されたのは、ずっと後のことである。そしてその収斂の過程は、美学の自然な進化と呼ぶには、あまりにも多くのものが介入していた。 花が変わった 今日、日本の春をいっぱいに満たす桜の花は、平安の詩人たちが森の中で探し彷徨ったその花ではない。 現在、日本全国で見られる桜の花の大部分はソメイヨシノという単一品種である。この花は明治時代初期、今の東京北部に該当する染井村の園芸師たちが売り始めたものである。自然から生まれた花ではなく、人間の手で作られた花。種を結べないため、繁殖はもっぱら接ぎ木でのみ可能である。これが意味するところは、今日、日本全国で春ごとに一斉に咲き上がるソメイヨシノが、すべて同一の遺伝子を持つということである。全国の花が同じ日に咲き、同じ日に散るのは偶然ではない。それらは文字通り同じ存在だからである。 寿命は長くない。六十年ほどで衰退する。千年を受け継いできた伝統の花というイメージと、一世紀を満たすことなく消え去る複製植物という現実との間の間隙は、この花が抱いている矛盾の第一の層位である。 ヤマザクラは花と葉が一緒に芽生える。白い花びらと赤く芽生える若葉が入り混じり、見る者の視線は花と葉の間を自然に行き来する。ソメイヨシノは違う。葉が出る前に花が先に咲く。枝全体が葉一枚なく花だけで覆われる。視線の行き場がない。花が風景を圧倒し、他のすべてを背景へと押し出す。 ここに群集の効果が加わる。数千本が同じ時期に同じ速度で咲き上がるとき、それは花の鑑賞ではなく一種の圧倒である。見るのではなく、巻き込まれること。平安の詩人が森の中で一本の花を見つけ出していた能動的な視線と、公園いっぱいに広がる花の波に捕獲される今日の視線は、方向が反対である。前者において花は発見されるものであり、後者において花は襲いかかってくるものである。 平安の詩歌において、桜の花がそれほど頻繁に不安と待ち望む情緒と共に登場した理由がここにある。花がまれで散在していたため、その出現は常に一つの事件であった。今日のソメイヨシノは、その希少性を消し去ってしまった。 考えてみれば奇妙なことである。気象庁が春ごとに開花時期を予報し、数百万本が同じ日に一斉に咲き上がる風景の前で、私たちは何を待つのか。待ち望むこととは本来、不確実性の中にのみ存在する。咲くことが確実な花、いつ咲くかすでに予告された花、どこでも同じように咲いている花の前で、平安の詩人が森の中で感じたあの緊張が再び起きることを期待するのは、最初から不可能なことである。 伝統が消え去ったのではない。伝統が指し示していた経験が、別の何かに交替したのである。 もちろん、ソメイヨシノが採択されたのには理由があった。安く、早く育ち、華やかだった。そして何より、すでに日本社会の中で数百年にわたって進行してきた一つの欲望の論理に完璧に合致した。より大きく、より多く、より一斉に。その論理はソメイヨシノよりもはるかに早く始まっていた。 群集はどこから来たのか 数千本の桜の木が一ヶ所に集まって咲き上がる風景は、ソメイヨシノが作り出したものではない。その論理はすでに数百年前から作動していた。 全国が大小の勢力に分かれて戦っていた16世紀、日本各地の領主たちは戦争で新たに得た土地を整備しながら、その土地に都市の品格を付与しようとした。彼らが基準とした都市は京都であった。長らく日本文化の中心であった京都、そして京都で最も多く植えられた花は桜の花であった。領主たちは自分の領地に京都の美しさを移し植えるため、桜の木数千本を一度に植栽した。花を植える行為が、文化的権威を主張する行為と同じであったのだ。当時、日本各地に生まれたいわゆる「小京都」は、地形や街の構造だけでなく、桜の花の名所まで京都をそのまま模倣する方式で作られた。 この過程で、桜の花を鑑賞する方式自体が変わり始めた。 それ以前まで、江戸において花見の中心は、伝説的な由来を持つ名高い一本の木を訪ね、その前で時間を過ごす方式であった。花ではなく、木を見に行くのであった。ところが領主たちの大規模な植栽で数千本が一ヶ所に集まると、鑑賞の対象が変わった。花一輪一輪の美しさではなく、雲や雪に例えられる塊としての美しさ。個別ではなく全体。桜の花はこの時から群集として経験され始めた。 江戸時代中期に入ると、この群集化の論理に新たな動力が加わる。経済である。 18世紀に入り、江戸はすでに世界有数の巨大都市となっていた。数本の名高い木では、これほど多くの人々の行楽の欲望を到底まかないきれなかった。将軍吉宗は、隅田川の河畔や様々な空き地に大規模に桜の木を植え、市民のための行楽場所を作った。以後、遊郭や寺院、高級料亭や宿泊施設が競って桜の木を植え始めた。花が人を引き集め、人が集まる場所でお金が回った。桜の花は文化的象徴であると同時に、経済的装置となった。 この論理が統治の言語と出会う瞬間が、記録の中に残っている。大阪のある役所の文書には、河畔に桜の木と楓の木を植えた理由として「人々が集まり繁華街をなすようにするため」という文句が明示されている。荒んだ民心をなだめると同時に、河畔に人が集まれば自然と経済が活気づくという計算であった。桜の花はすでに統治の言語の中に入ってきていた。 江戸の遊郭吉原は、この論理の最も劇的な事例である。毎年春になると、遊郭の中心の通りに庭師たちが千本に達する桜の木を丸ごと移植し、花が散ると再び引き抜いていった。提灯に照らされた夜桜が遊郭の雰囲気と調和し、数え切れないほど多くの客が押し寄せたと伝えられる。花が美しいからではなかった。花が人を呼ぶからであった。 このあたりで一つの問いが自然とついてくる。桜の花をこれほどまでに大規模に、これほどまでに意図的に植えてきた人々にとって、ソメイヨシノが登場した時、それは何であったのか。既存のヤマザクラよりも安く、早く育ち、葉がなく花だけが密集して咲き上がるこの新しい品種は、すでに数百年にわたって洗練されてきた群集化の欲望に完璧に合致する道具であった。ソメイヨシノは、その欲望がとうとう見つけ出した最も効率的な形態であった。 しかし、効率性だけでは説明できないものが残る。ソメイヨシノが単により便利な花であったならば、それは園芸の歴史において一行を占める事件として終わっていただろう。この花が「日本の顔」となったのは、別次元の物語を必要とする。そしてその物語は、花畑ではなく戦場から始まる。 「日本の魂」はいつ作られたのか 桜の花が日本を代表する花になることと、桜の花が日本人の精神そのものを象徴するようになることの間には、決定的な間隙がある。そしてその間隙を埋めたのは、美学ではなく戦争であった。 日清戦争の戦雲が漂い始めた頃、日本のある政治家が雑誌に文章を載せた。桜の花こそ日本の国花であるという主張であった。この主張は戦争が終わった後、様々な雑誌へと広がっていった。国粋主義性向の論客たちは桜の花に日本人の固い節操と意志を発見し、教育界では戦争勝利を記念する木として桜の木を学校に植えるべきだという声が出た。その理由として掲げられたのは「古くから日本人の精神を象徴してきた」花だということであった。 ここで立ち止まって指摘すべきことがある。先ほど見てきたように、桜の花は長らく武家社会において仏教的無常の象徴として、あるいは繁栄と先進文化の象徴として愛されてきた。しかしそれが「日本人の精神そのもの」として宣言されたことは一度もなかった。この主張は千年の伝統から自然と流れ出たものではなかった。それは戦争の熱気の中で突然に構成されたものであった。 ではなぜ、この主張はそれほど容易に受け入れられたのか。 答えは、木々がすでにそこにあったということである。数百年にわたる領主たちの植栽、江戸時代の公共公園の造成、明治初期のソメイヨシノの爆発的な普及を経て、日本は他のどの国とも比較できないほど多くの桜の木が植えられた土地となっていた。春になればどこへ行っても桜の花があった。この圧倒的な物理的現実が、「桜の花は日本の花」という主張を自然な連想のように見えさせた。言説が現実を作ったのではなく、あらかじめ作られた現実が言説に自然さの外皮を着せてくれたのである。 そしてソメイヨシノという品種の生物学的特性が、このイデオロギーに奇妙に合致した。 全国の木が同一の遺伝子を持ち、同じ日に咲き、同じ日に散る。個別性がない。差異がない。どこから見ても同じ花が同じ速度で動く。これが自然の言語で描き出すイメージは、均質に動く一つの集団である。一人一人ではなく、全体として咲き上がり、全体として散ること。近代国家が必要とする身体のイメージを、この花は春ごとに何の強要もなく、美しさの形式で遂行した。 花びらが散ることと人が死ぬことを同じ言語で括ることは、この土壌の上でなされた。戦死した兵士を「散華」したと表現すること、靖国神社の境内をいっぱいに満たすソメイヨシノ、若者たちに「桜のように散ること」の美しさを教える軍歌と教育資料。これらは事後に付け加えられた解釈ではなかった。当時の記録の中に明示的に登場する。美しく散ることに対する長きにわたる感受性が、美しく死ぬことに対する国家的な要請へと滑り落ちた。 靖国神社の春を考えてみよう。戦死した人々が眠っているその境内に、ソメイヨシノは毎年咲き、散る。花びらが一度に落ちるその場面が死と重ね合わされる時、死は悲しみの事件ではなく美しさの事件となる。哀悼は感嘆へと滑り落ち、感嘆する者はもはや問わない。 桜の花は美しかった。美しさは本物だった。そしてそれが、この物語の最も不都合な部分である。 誰かが強要したのならより単純であっただろう。しかし、人々は自らその下に集まった。自ら感動した。自らそれを日本の本質として感じ始めた。国家がその感動を設計したのではなかった。ただ、その感動が育つ条件を長い時間をかけて培っておいただけである。公園に木を植え、学校に木を植え、戦場に木を植える間に、春の感覚自体が少しずつ違うものになっていた。 美しいものを前にして、その美しさがどこから来たのかを問うことは、常にどこか不敬なことのように感じられる。花が美しいほど、その問いはさらに不必要に見える。おそらくそれが核心であろう。 植民地に植えられた花 桜の花が日本を象徴するならば、桜の花がある場所は日本となる。 この論理は宣言ではなかった。それは実際に作動した原理であった。1900年代初頭から朝鮮に渡ってきた日本人は、自分たちが定着したり開発したりした地域に例外なく桜の木を植えた。役所の前に、学校の庭に、新しく整備した道路沿いに、神社の境内に。1920年代の朝鮮で15年間暮らしたある日本人官吏は、回顧録にこう書いた。桜の花の季節に朝鮮を旅行すれば誰でも気づくはずだと。都の小さな公園、市街地の入り口、学校、新しく開かれた市場、田舎の日本人の家、小さな駅と社宅、忠魂祠——日本軍の戦死者を称える慰霊施設——の周辺には必ず大小の桜の花があるのだと。彼は付け加えた。桜の花の分布状態を見れば、その地域の日本人の居住状況を大体把握できると。 花は地図であった。どこまでが日本の土地であるのかを表示する、季節ごとに咲き上がる地図。 朝鮮内の桜の木の植栽は、年ごとに規模を大きくしていった。昌慶苑、南山、漢江人道橋、奨忠壇——朝鮮の追悼空間を日本が公園に変えた場所。朝鮮に渡ってきた日本人の数が急激に膨れ上がる間、桜の木はその増加速度に合わせて朝鮮の風景を変えていった。もともと朝鮮で目立たない木であったため、集中的な植栽が作り出した景観の変化はいっそう際立った。 花をめぐる緊張は抽象的なものではなかった。 公州の山城の麓に桜の木を植えていた日本人官吏の記録には、こんな一節が出てくる。木を植えておくと折られ、引き抜かれた。虫が新芽を食べ、牛が踏んで通り過ぎるのはともかくとして、半分いたずらで引き抜かれた木があまりにも多く、結局、木の下に見張りを立てて昼夜守らなければならなかったと。この記録を書いた人は日本人であった。彼はこれを不都合なこととして記録したが、なぜそのようなことが起きるのかは説明しなかった。説明が必要なかったからであろう。 同じ木が、ある人にとっては故郷の春であり、ある人にとっては別の何かであった。この間隙は論理で作られたものではなかった。それは体で感じられるものであった。 一方、朝鮮で最も多くの人が集まった桜の花の名所は昌慶苑であった。もともと朝鮮王室の宮苑であったこの場所は、日帝によって動物園と植物園を備えた公園へと変えられ、1909年の開園以降、2千本を超える桜の木が植えられた。1924年からは夜にも花を見られるように照明を灯した。入場者数は年を重ねるごとに膨れ上がった。開園から数十年が過ぎた頃、年間の入場者は100万人を超えた。当時の京城の人口が93万人であったから、京城に住む人であればほぼ全員が一度は足を運んだわけであった。 朝鮮の新聞と雑誌は、この昌慶苑の桜の花見文化を絶えず批判した。日本の象徴の下で飲み食いして一日を過ごすことを、消費的で無気力な行楽と規定した。ツツジや桃の花を桜の花に対抗する朝鮮の春の花として掲げる文章が現れた。桜の花が「サクラの花として名を売るが」柳のある朝鮮の春の方がより優雅であるという主張もあった。 しかし、昌慶苑の人波は減らなかった。 批判が正しいということを知りながらも、人々はその下に集まった。鉄原からわざわざ上京して桜の花を見る人がおり、老いた母親を背負ってあちこち花見をさせてあげる人もいた。花は美しかった。それも襲いかかってくる方式で。象徴を記憶するためには花から一歩退かなければならないが、数千本が一斉に咲き上がったその風景は、その距離を許さなかった。 1930年代末、ある朝鮮人詩人の紀行文には、東萊温泉周辺の桜の花が登場する。彼の目に映った桜の花は日本の象徴ではなかった。雲のように咲き上がり温泉一帯を覆う花であり、それが散った後にはツツジが咲き上がる、春の色彩が次々と交差する風景の中の一場面であった。同時期、ある少年が遠足に行ってきて書いた文章の中で「サクラ」はただの道端の風景であった。日本の象徴でもなく、抵抗の対象でもない、ただ春に咲く木。 意味が消え去ったのではなかった。花が前景を占めただけである。批判も記憶も歴史も、花の背後へと押しやられた。消え去ったのではなく聞こえなくなったのだ、交通騒音のように。そしてその押しやられが、また別の問題を残した。象徴が背景へと退いた場所で花はただの花となったが、その花がどのようにしてそこへ来ることになったのかに対する記憶も、一緒に背後へと押しやられた。それでもなお「桜の花は日本のもの」という感覚が完全に消え去らないのは、花が記憶を抱いているからではなく、人々がその記憶を抱いているからである。 韓国人が桜の花の下で感じる妙な不都合さは、植物学的な事実から来るのではない。それは、この花が通過してきた歴史の重さから来る。その重さを感じる人々は、この花がどのような論理で植えられたのかを、おぼろげながらも記憶している人々である。 今日の花の下で 春ごとに日本列島を覆うソメイヨシノの風景の前で、日本人が感じる感動は本物だ。それを疑う理由はない。 同じ花の前で、韓国人が立つ場所は少し異なる。冒頭で触れたあの分裂、桜の花を楽しみながらもどこか後ろめたい感覚はどこから来るのか。それは単に植民地の記憶から来るだけではない。その不都合さは、もしかすると一つの正直な認識から来るのかもしれない。この花がただの花ではなかったということ、それが特定の意図と論理を持って植えられた花であったということを、体で記憶する感覚。 その感覚は不必要なものではない。ただ、それが時々突飛な方向へと流れていく時がある。済州の王桜起源説にしがみつくように、花の所有権を取り戻すことで不都合さを解消しようとする試み。しかし、所有権の問題が解決するからといって、花が通過してきた歴史が消し去られるわけではない。そして歴史が消し去られないからといって、花が美しくないわけでもない。 美しさと歴史は互いを消し去らない。それを同時に抱えていることが不都合であるならば、その不都合さはおそらく正直なものである。 問いは残る 春は今年もやって来て、花は咲いた。 ソメイヨシノはこの春も、日本列島と韓半島の至る所で同じ日に一斉に咲き上がるだろう。人々はその下に集まり、食べ、飲み、写真を撮るだろう。感動するだろう。その感動は本物だろう。 そして、それで十分であるかもしれない。 ただ、一つの問いが残る。私たちが春ごとに経験するその感動がどこから来たのかということである。千年の時間を横切って自然に流れてきたかのように感じられるその経験が、実は特定の時間の中で特定の人間たちの手によって作られたものであるならば。それを知ることが経験を台無しにするのか、それとも経験をもう少し正直なものにするのか。 平安の詩人たちは森の中で花を探し彷徨いながら問うた。咲いたか、まだか。その待ち望む心の中で花は出現するものであり、出現することは常に一つの事件であった。今日私たちが見る花は、その問いを必要としない。花は予報され中継され、どこにでもある。探さなくても襲いかかってくる。 その風景が美しくないと言おうとしているのではない。ただ、その風景が何であるのかを、それがどのように作られたのかを、一度くらいは問うことができるならば。花が咲く前に、あるいは花が真っ盛りのその只中で。 春は答えないだろう。花はただ咲くだろう。しかし問いは残る。

CONTINUE READING...

宣告文のなかの告白

一年が過ぎたことを実感したのは、カレンダーを見たときではなかった。ある会話のなかで誰かがあの夜の話を持ち出し、私は自分がそれをすでに遠い出来事のように聞いていることに気づいた。 だが、憲法裁判所の宣告文の主文は覚えていた。――被請求人、大統領 尹錫悦(ユン・ソンニョル)を罷免する。 あるいは、だからこそ宣告文を読み返したのかもしれない。その一文の前に、何があったのかを確かめたくて。最初はニュースで見守っていた。最後に訪れる主文を待ちながら、その手前の言葉たちは、まともに耳に入っていなかった。 「国会が迅速に非常戒厳解除要求決議を行うことができたのは、市民たちの抵抗と軍警の消極的な任務遂行のおかげであったから、これは被請求人の法違反に対する重大性の判断に影響を及ぼさない」 裁判所は、これを違憲判断の根拠として記した。しかし、この一文をゆっくりと読むと、法的判断とは別に、何か別のものがここに記録されているという感触がある。戒厳が解除されたのは、制度のおかげではなかったということ。あの夜、制度は単独では不十分だったということ。裁判所がそれを、事実として確認している。 その告白が、宣告文のなかに静かに入り込んでいる。 見えない層位 その一文が頭のなかに残ったのは、それが法的判断以上の何かに触れていたからだろう。 民主主義には二つの層があるということを、私たちはどこかで知っている。 ひとつは目に見えるものたちだ。選挙、議会、憲法裁判所、三権分立。権力を分かち、制限し、牽制するように設計された装置。しかし、これらの装置が実際に作動するためには、目に見えない別の何かがまず存在していなければならない。行為者たちがルールを内面化していること、権力者が敗北を受容すること、法が自身にも適用されるということを誰もが実際に信じていること。制度はその信念の上でしか作動しない。信念が崩れた場所で、制度は殻になる。 2024年12月3日の夜が示したのは、まさにそれだった。大統領が戒厳を宣布し、軍を動員して国会を封鎖せよと命じたとき、その命令を阻んだのは憲法の条項ではなかった。憲法はあの夜、みずからを守れなかった。塀を越えた市民たちが、命令に消極的に反応した軍人たちが阻んだのだ。 これは民主主義が勝利した物語だ。だが同時に、私たちがそれを勝利と呼べるためには、あの夜、あの人々がそこにいなければならなかったという物語でもある。 地形の問題 戒厳が宣布され得たという事実そのものが、すでにひとつの信号だった。 憲法には実際に戒厳に関する条項があり、要件があり、手続きがある。しかし、その条項がこの状況において実際に動員され得たということ、大統領がそれを国会との政治的対立を解消する手段として認識したということ――これは一人が誤った選択をしたという話だけでは説明がつかない。それ以前に、権力の限界に対するある種の感覚が内面化されないまま置かれていたということが先にある。 私はここで、尹錫悦個人の道徳性や判断力を論じようとしているのではない。裁判所はすでに、それに答えた。私がより長く立ち止まってしまうのは、その次の問いだ。そのような選択が可能であったという事実が露呈させる、ある地形。そして、その地形は、一人だけのものであるのか。 作動の条件 罷免が確定したのち、多くの人々が口にした。民主主義が作動した、と。間違った言葉ではない。 あの夜、国会議員たちが本会議場に進入して解除決議案を通過させたのは制度的手続きだった。憲法が付与した権限が実際に行使された。憲法裁判所は全員一致で罷免を決定した。制度は作動した。 だが、その手続きが可能であった条件をたどっていくと、話は少し変わってくる。議員たちが本会議場に入ることができたのは、市民たちが軍人たちの進入を身体で阻んでいたからだった。その物理的空間が確保されていなければ、制度的手続きそのものが成立しなかったかもしれない。制度が作動したのは事実だ。しかし、制度はみずからが作動する条件を、みずから作り出すことはできなかった。 法はみずからを守らない。それが事実であるなら、塀を越える人々は次もいるだろうか。そして、もしそれを当然のこととして前提できないのであれば、いま、制度は何をしているのか。 まだ宣告前であるものたち 罷免から一年のあいだ、治癒の談論が繰り返された。分断が治癒されないということ。ただ、この言葉はほとんど常に、何かを括弧に入れたままであった。どこから来たのかを問わないこと。 治癒とは、どの状態へ戻ることなのか。戒厳宣布以前の状態へ? だがその状態こそが、すでに戒厳を可能にしていたのではなかったか。戻るべき場所など、はたしてあるのだろうか。 あるいは葛藤が持続しているのは、治癒の失敗ではなく、まだ誰も正視していない何かがあるという信号なのかもしれない。罷免はひとりの人間に対して下された決定だった。彼をその地位に座らせたものたち――制度に対する信頼の空白、敗北を受容する文化の不在、権力の限界を内面化していない感覚――については、いまだ何の決定も下されていない。それらは罷免とともに消え去ることはない。 憲法裁判所の宣告文で裁判所が残したあの一行が、どうしても頭から離れない。 「市民たちの抵抗のおかげであった。」 これは称賛でもあるが、同時に告白でもある。私たちの制度は、単独では十分ではなかったという。そして、その告白が宣告文のなかに静かに入り込んでいる。 被請求人、大統領 尹錫悦を罷免する。 その後に残された問いは、いまだ宣告を待っている。

CONTINUE READING...

ろうそくの灯が消えた場所に

BTSのカムバックライブ映像がある。 画面は景福宮の夜景から始まる。殿閣たちの曲線を描く屋根と光化門。そしてカット。巨大な舞台照明。歓声。七人のシルエット。 私はこの映像を初めて見たとき、何かおかしいという感覚を抱いた。しかし、その違和感が正確にどこから来るのか、すぐには言葉にできなかった。映像は美しかった。編集は流麗だった。景福宮はいつものように夜景が素晴らしかった。それにもかかわらず、何かが合致していないという感覚、何かを無理やり当てはめているという感覚が残った。 その違和感の正体を探ることから、この文章は始まる。 この空間が何であるか、そこから 光化門は、朝鮮の法宮(正宮)である景福宮の正門だ。「王の徳が国中を照らす」という名。ゆえにある意味では、王の帰還をここで宣言することは、象徴として自然なことのようにも見える。王の門の前で、王が戻ってくる。イメージとしては明快だ。 ところで、少し待ってほしい。 この空間の歴史は王朝から始まるが、王朝では終わらない。日本統治時代、朝鮮総督府は光化門と勤政殿(景福宮の正殿)の間に自らの庁舎を建てた。勤政殿へと向かっていたその軸を、建物で断ち切ったのだ。単に場所を占拠しただけではない。この地が自らの中心を持つ国であったという事実を、石とコンクリートで消し去る行為だった。 総督府の建物は1995年になってようやく撤去された。解放から50年を要した。その間に建物は名前を変えた。米軍政庁となり、大韓民国中央庁となった。植民地の建物の下で、軍事政権はパレードを開いた。新しい権威の舞台となったのだ。この空間が誰のものであるかは、そうして長い間、不分明なまま残されていた。 光化門は復元され、2023年には月台までもが元の場所に戻ってきた。自然な流れのように見えるかもしれないが、そうではない。50年を要したということがその証拠だ。その時間の中には、長い争いと要求があり、政治的な決断があった。 そしてその過程のどこかで、この広場にはまた別の出来事が起きた。 2016年の冬を思い出さずにはいられない。数百万人がここに集まった。ろうそくを掲げた。その時間を直接経験した人であれ、そうでなかれ、あの広場が何であったかについての何らかの記憶は、社会全体に残っている。王朝の正門の前で、植民の痕跡がいまだ消えやらぬその場所で、市民たちがこの空間を自分たちのものだと身をもって宣言した。その記憶が光化門という空間に積み重なっている。 光化門が今日の韓国社会で持つ意味は、宮殿がその前にあることから来るだけではない。その宮殿の前で何が起きたのか、誰がそこに立っていたのかという歴史からも来る。これが、この空間の物語だ。 あの映像にないものは、まさにこれである。 ないということと、消されたということ ないということと、消されたということは、別の言葉だ。 映像において景福宮がBTSのステージの背景として編集されるとき、景福宮はどのような役割を担うことになるのか。それはもはや、植民と復元と市民闘争が幾重にも積み重なった場所ではない。それは「韓国らしさ」を画面の中で証明する装置となる。ここが韓国であることを、これが韓国のアーティストであることを視覚的に保証する背景。 イメージがそのように作動することを、私たちは知っている。二つのイメージを並べれば、意味が生産される。その意味が生産される過程で、それぞれのイメージが元々持っていた複雑な文脈は後退する。景福宮の夜景は美しい背景となり、その背景の上で帰還の物語が繰り広げられる。歴史は背景へと格下げされる。 これ自体が一種の暴力なのかと問われれば、私は正直なところ、よくわからない。イメージは常に文脈を切り取る。いかなる写真もすべての歴史を盛り込むことはできない。ゆえに、背景を背景として使うことが過ちなのかと問われれば、その問いに対して簡単に「そうだ」と答えることは難しい。 しかし、私がこの映像でどうしても目に留まるのは、そこではない。 ハイブ(HYBE)はこの空間の歴史を十分に知り得る立場にあった。光化門を背景として選択したとき、その選択がどのような意味を作り出すのか、知らなかったはずがない。それなのに、結果としてこの空間が持っている物語――植民の記憶、市民たちがこの空間を自分たちのものとして積み上げてきた実践、復元の熱望――は、編集版のどこにもない。あるのは宮殿のシルエットと「王の帰還」という文言だけだ。 これは無知の結果ではない。これは選択の結果だ。 グローバル市場に送り出す映像において、この空間の複雑な歴史は必要なかったのだろう。必要だったのは「韓国らしく」見えるイメージ、雄大な背景、帰還の物語にふさわしい視覚的権威だったはずだ。その必要に従って景福宮が選択され、その選択において歴史は消された。 歴史が積み重なった空間を、グローバル市場で消費可能なイメージへと圧縮すること。これが、私がこの映像で感じた違和感の正体であったことを、後になって知った。 「王の帰還」が上書きするもの この話をしながら、「王の帰還」というマーケティング用語を素通りすることはできない。 もちろん、これは誇張された広告コピーだ。アーティストの帰還を劇的に表現するために選ばれた言葉だ。あまり深刻に受け取るなと言われるかもしれない。 だが、少し待ってほしい。この文言を文字通りに受け取ってみよう。 この空間の物語が、王の空間が市民の空間へと変わってきた歴史であるならば、「王の帰還」はその方向を逆行させる宣言だ。市民が自分たちのものにした空間において、再び王が戻ってくる。これを意図して書いたのではないだろう。しかし、意図しなかったということが、効果を打ち消すわけではない。 光化門にステージを設置し、ろうそくの代わりに照明を灯し、市民の代わりに統制された観客を配置し、そのすべての上に「王の帰還」を載せること。これは、この空間が保持してきた意味を――それが誰のものであったかを――最も対極にあるイメージで静かに上書きすることだ。 そして、この上書きがより完全である理由は、それが強制によって行われないからだ。この空間の権威をむしろ借り受け、景福宮の美しさを背景として使用しながら、歴史を消し去るのではなく、歴史を包装紙として使いながら行われる。だから、抵抗することが難しい。美しいのだから。 BTSの真摯さについて しかし、ここで私はもう一度踏みとどまりたい。 なぜなら、このあたりでこの文章が、結局のところBTSを批判しているものとして読まれかねないことが気になるからだ。 RMは公演会場で言った。「自分自身の声にもう少し耳を傾け、悩みや不安や彷徨まで率直に込めることが今回のアルバムの目標だった」。シュガは言った。「まだ確信を持てず不安だが、こうした感情も自分たちが今感じている感情だと思う」。 これが真摯でないとは思わない。そしてその言葉が数百万人へと届くことも、そこで何らかの癒やしが起きることも、私は疑わない。兵役による4年近い空白の末に戻ってきた彼らが、自分が依然として何者であるかを確信できないままステージに立つこと、そしてその率直さが似た感情を持つ人々に何かを届けること。これは本物だ。 もしこの文章がそれを否定するものならば――個人の感情よりも構造的正しさの方が重要だと言うのであれば、人々が実際に経験する癒やしを談論的純粋さによって裁断するのであれば――それは私が書きたい文章ではない。そして正直に言えば、そのような文章は正しくもない。巨大な物語が個人の脆弱な感情を圧倒する方式、それこそが私たちが抵抗したいことの一つでもあるのだから。 しかし、これと構造に対する問いは別の地平にある。 誰かの真摯さが本物であるということと、その真摯さが流通する方式がどのような構造の上にあるのかを問うことは、同時に可能だ。名医の診断が誠実であるという事実と、その診断が行われる医療システムに問題があるという事実が、互いを打ち消し合わないように。 そして、ここで私が本当に問いたいことがある。 「ありのままの自分を愛そう」というメッセージがある。個人の脆弱性を肯定し、不安を抑圧せずにそれと共に生きていこうという、あのメッセージ。そのメッセージが伝達される空間が――市民が集合的にその意味を書き込んできた空間が――三つの主体の契約として処理される。個人の真正性を語る声が、集合的な空間に対する集合的な権利が音もなく消されていく構造の上で響く。 これはBTSが悪いという話ではない。これは、良いものもまた、ある構造の中で作動するという話だ。そしてその構造がどのような姿をしているかを見えなくさせるために、良いものが盾として使われることもある、という話だ。 契約書を覗き込めば では、契約の構造を見てみよう。 ハイブの光化門広場7日間の使用料は約3,000万ウォン、景福宮と崇礼門の撮影許可を合算すると計約9,000万ウォンだと報じられた。公演当日、20万人を超える群衆を管理するために警察、消防、地下鉄、道路統制の要員が大規模に投入され、その費用は税金で賄われた。ネットフリックス(Netflix)は全世界独占配信権と二次版権を手に入れた。国内の視聴者がこの公演をリアルタイムで見るためには、ネットフリックスの購読料を払わなければならなかった。現場のメディア取材は10分に制限された。 これらの数字を並べると、ある構造が見えてくる。費用は公共が負担し、収益は少数の民間に集中する。 市民の税金が守る空間で起きている出来事を、その空間の主人である市民が見るために、私企業に購読料を払わなければならない。この文章を書きながら、私はこれがいかに奇妙な構造であるかを改めて感じる。 もちろん、これを法的に問題視することは難しい。ソウル市は現行の条例の範囲内で許可を出し、契約は有効だ。しかし、法的瑕疵がないということが、この構造に何の問題もないことを意味するわけではない。 私が本当に問いたいのはこれだ。光化門がいかなる空間として存在するのか、その空間で何が起きるのか、その行事の費用と利益がどのように配分されるのかを決定する場に――この空間の主人である市民はいたのか。 ハイブ、ネットフリックス、ソウル市。この三者が決定した。これが公共空間に関する決定として十分だろうか。これは法律の問題ではなく、原則の問題だ。 「経済効果」という言葉 このあたりで、もう一つの反論がある。商圏が活性化され、観光客が訪れ、ソウルが宣伝される。これらは事実かもしれない。 私はこの反論が間違っていると言いたいのではない。経済効果はあっただろう。 ただ、これが知りたいのだ。経済効果があるという事実が、この空間の公共性に関する問いを代替できるものなのか。 もしそうであるならば、光化門広場にショッピングモールを建てても、経済効果があるから正当化されるという論理も受け入れなければならない。この論理が突き詰められれば、公共空間という概念そのものが不要になる。経済的に効率的な用途で使えば済むことなのだから。 経済効果と公共性は、同じ単位で測定できないものたちだ。これが交換可能なものであるかのように提示されるとき、私たちはすでにある言語の内側に入り込んでいる。その言語がどこから来た言語であるかに気づくことが重要だ。 そして、経済効果の恩恵がどこへ向かうのかも問わねばならない。商圏活性化の効果は分散的で一時的だ。全世界独占配信権と二次版権の収益は、構造的に二つの企業に集中する。「ソウルが宣伝される」ということが事実であっても、それがどのような構造で実現されるのかは別個の問題だ。 再び、映像の前で 景福宮の全景とステージ照明が交差する場面に戻る。 その場面は美しい。これを否定はしない。景福宮の夜景は美しく、長い待ち時間の末に彼らを待ってきた心もまた本物だ。公演会場でアーティストが不安と彷徨を語るとき、それが数百万人へと届くという事実も本物だ。これらは同時に事実だ。 しかし、あの編集場面において、この空間の歴史はない。総督府も、ろうそくも、月台の復元に込められた何かも――これらは「韓国らしい背景」というイメージの中へと平たく押し潰された。その平たさの上で、王が帰還する。 光化門は二度植民地化されたと私は考える。一度目は総督府の建物によって、空間を物理的に占領しながら。二度目は――より静かに、より滑らかに、ゆえにある意味でより完全に――編集のフレームによって、空間の意味を抽出し、歴史を背景として処理しながら。 一度目は建物を撤去することで、ある種の完結を作ることができた。二度目は、どこから撤去するのか。 この文章が郷愁を勧めているわけではない。光化門が常に純粋であったと言いたいわけでもない。ただ問いたい。この空間の意味を誰が決定するのか。その決定はどのような手続きを通じて行われるのか。そしてその決定において、この空間の集合的な主人はどこにいたのか。 ろうそくの灯が消えた場所にロゴが灯った。これは比喩ではない。 そして、この一文がもはや何も触発しないように感じられるのであれば、それはおそらく、私たちがすでにそれに十分に慣れてしまったからだろう。

CONTINUE READING...