一年が経ったと実感したのは、カレンダーを見たときではなかった。ある会話の中で誰かがあの夜の話を持ち出し、自分がそれをすでに遠い出来事のように聞いていることに気づいた。
ところが、憲法裁判所の宣告文の主文は覚えていた。
被請求人、大統領尹錫悦を罷免する。
おそらく、だからこそ宣告文を読み返したのかもしれない——その文章の前に、何があったのかを確かめたくて。最初はニュースで見守っていた。最後にくる主文を待ちながら、その前の事柄はまともに耳に入らなかった。
「国会が迅速に非常戒厳解除要求決議を行うことができたのは、市民たちの抵抗と軍警察の消極的な任務遂行のおかげであったため、これは被請求人の法違反に対する重大性の判断に影響を及ぼさない」
裁判部はこれを違憲判断の根拠として記した。しかし、この一文をゆっくりと読むと、法的判断とは別に、何か他のものがここに記録されているという感触がある。戒厳が解除されたのは制度のおかげではなかったということ。あの夜、制度は単独では十分ではなかったということ。裁判部がそれを事実として確認している。
その告白が、宣告文のなかに静かに入り込んでいる。
非常戒厳が宣告され得たという事実自体が、すでに一つの信号であった。
憲法には戒厳に関する条項があり、要件があり、手続きがある。しかし、その条項がこの状況において実際に動員され得たということ、大統領がそれを国会との政治的対立を解消する手段として認識したということ——これは、一人が誤った選択をしたという話だけでは説明がつかない。その選択が可能であった場所には、権力の限界に対するある種の感覚が内面化されないまま存在していた。
裁判部はその判断についてはすでに答えた。私がより長く立ち止まることになるのは、その次の問いだ。あのような選択が可能であったという事実が露呈させる、ある地形。その地形は一人だけのものなのか。
罷免が確定した後、多くの人々が言った。民主主義が機能したと。間違いではない。
あの夜、国会議員たちが本会議場に進入し解除決議案を通過させたのは、制度的な手続きであった。憲法が付与した権限が実際に行使された。憲法裁判所は満場一致で罷免を決定した。制度は機能した。
ところが、その手続きが可能であった条件をたどっていくと、話が変わってくる。議員たちが本会議場に入ることができたのは、市民たちが兵士たちの進入を体で阻んでいたからであった。その物理的な空間が確保されていなければ、制度的な手続きそのものが成立しなかったかもしれない。
制度が機能したのは事実だ。しかし、制度は自らが機能するための条件を自ら作り出すことはできなかった。憲法はあの夜、自らを守ることができなかった。塀を越えた市民たちが、命令に消極的に反応した兵士たちが守ったのだ。
法は自らを守らない。塀を越える人々は次にもいるのか。
罷免から一年間、「治癒」の言説が繰り返された。分裂を治癒しなければならないということ。ただ、この言葉はほとんど常に、何かを括弧に入れたままであった。どこから来たのかを問わないこと。
治癒とは、どのような状態に戻ることなのか。非常戒厳宣告以前の状態か。しかし、その状態こそがすでに、戒厳を可能にしていたのではないか。戻る場所など、あるのか。
もしかすると、葛藤が持続しているのは治癒の失敗ではなく、まだ誰も正しく見つめていない何かがあるという信号なのかもしれない。罷免は一人の人間に下された決定であった。彼をその座に就かせたものたちについては、まだいかなる決定も下されていない。