臭わない

臭わない。

鮫の前に立つとき、最初に浮かぶ考えがそれだ。ホルマリンの水槽の中、泳いでいた姿勢のまま止まって浮かんでいる鮫。死んでいることは明らかなのに、腐らない。臭わない。

霊安室でも使われ、ハーストの作業室でも使われる。役割は同じだ。

自然状態において、死は状態ではなく過程である。あるものが死ぬということは、それが他のものへと分解されていく長い旅の始まりである。匂いはその過程の信号だ。境界が崩れつつあるという、これとあれの間の輪郭がぼやけつつあるという信号。ホルムアルデヒドはその過程を止める。鮫は泳いでいて捕らえられたその瞬間の形態を永遠に維持する。腐敗しない。臭わない。

ハーストの作品が展示しているのは死なのか、それとも死が死であることをやめた状態なのか。

同じ展示室には《A Thousand Years》もある。

ハーストが1990年に制作した作品である。ガラスのケースが二つ連結されており、片方には牛の頭が置かれている。蠅たちがその中で孵化し、食べ、交尾をし、電撃殺虫器で死ぬ。ホルムアルデヒドはない。停止した死ではない。これは過程であり、時間であり、実際の分解である。

ガラス越しに蠅が見える。牛の頭の上を這い回るもの、ケースの中を飛び回るもの、床にすでに死んで散らばっているもの。電撃殺虫器の青い光。腐敗は進行している。ところが匂いも、音も、ガラスの外までは届かない。照明が設計された空間で、入場券を買って入り、それを見る。

観客は死の過程を目撃する。いや、本当に目撃するのか。

もしかすると、ホルムアルデヒドよりも完璧な保存液がある。

しかし、これはハーストの問題なのか。ガラスと照明と入場券はどの展示室にもある。

暗い部屋の真ん中で髑髏が光っている。その周囲を観客たちが取り囲んでいる。画面に髑髏を収め、確認し、また収める。ダイヤモンドが光っているのか、画面が光っているのか、見分けがつかない。

《For the Love of God》。実際の髑髏の上に数千個のダイヤモンドを嵌め込んだ作品。ハーストはこれを死に対峙する人間の意志だと説明した。だが、死に対峙するということが、死の上に世界で最も高価なものを載せるというやり方で可能なのか。それは対峙なのか、それとも隠蔽なのか。そしてそれを買える人にだけその安全が与えられるのなら、この作品が扱うのは死なのか、それとも死を買える能力なのか。

すべての芸術が死からの距離を作るのだとすれば、ハーストの作品はその距離がいくらであるかを明示する。

文章も距離を作る。ホルムアルデヒドの代わりに文を書き、ガラスのケースの代わりに段落を作り、鮫の代わりに「ハースト」という名を分析の対象として固定する。対応が正確であるということは、すでに対象が統制されているということだ。

この文章が終われば、私は席を立つ。

臭わない。

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